少し旬を外したネタですが、著作者が書籍電子化代行業 2 社 (スキャンボックス [URI] とスキャン×BANK [URI]) に対して電子化の差し止めを求める訴訟を起こした (講談社プレスリリース [URI]) 訳で、電子化代行事業者側が争う場合、法廷戦術としてどんなことができそうかなということをつらつらと考えていたので記録しておきます。
まず、著作権法で「複製権」というものが許諾権として著作権者(出版契約等で譲渡・委託していなければ通常は著作者)に認められており、例外規定で認めらるものを除いた無許諾の複製は違法です。常識だと思っていたのですが Twitter の私の TL では微妙にここの理解が怪しい人もいたようなので為念に記述しておきます。
今回の訴訟での著作権者側の請求の趣旨は、プレスリリースを読む限りでは「訴えを起こした作者の著作物は以後電子化依頼を引き受けるな」だけで損害賠償も何もなしという非常に穏当な内容で、以後一切の電子化事業を止めろとか、損害賠償を支払えとか、普通の訴状なら書かれるはずの訴訟費用(この場合、訴額は著しく算定が困難に該当するので 160 万で代用されて、印紙代 13,000 円が適用されるはず)を支払えといった内容は含まれていないようです。
許諾権である複製権に関して「事業者に依頼しての電子化は許諾しない」と事前宣言した上で「電子化するな」と求めている内容なので、著作権法の法文上は妥当な請求です。つまり電子化代行事業者側が争うのはかなり難しい裁判になります。
それでも、裁断を前提にした破壊型の書籍電子化であれば、電子化代行という事業は存在していても良いのではないかという個人的な思いから、今回の訴訟で代行事業者側が争うとしたらどういった論点を立てられるだろうかということを考えてみました。
まず、最初に思いつくのが「電子化は複製ではない」という主張です。今回被告となった 2 事業者では、電子化元の書籍はスキャン後に事業者側で破棄されているようですので、書籍から電子データに形態を変更しただけで、複製ではないと主張することも不可能ではない形となっています。
裁判の席でこうした主張が行われた例を発見できていないので、どの程度法廷で認められる可能性があるか不明ですが、一応主張するだけ主張しておくべきではないかと考えます。ただし……被告 2 事業者共にオプションサービスで裁断後の原本を郵送返却するサービスも用意されているようですので「複製ではない」と主張するのはかなり無理があるように思えます。
次に思いつくのが「複製しているのは事業者ではなく、個々の依頼者である」という主張です。複製の行為主体が事業者ではなく個々の依頼者であるということになれば、電子化(に伴う複製)は著作権法 30 条で認められた私的複製の例外規定で救われますので、複製権が制限され、著作者の許諾は不要となります。
裁断やスキャナの操作といった電子化の実務をしているのが事業者の従業員である状況で、複製の行為主体が事業者ではないと認められる可能性がどの程度あるかですが……実は著作権法の過去の裁判例では機器の操作をしている人が複製等の行為者として認められた裁判例は少ないのです。
この辺りは「カラオケ法理」とか「手足論」を検索して欲しいのですが、複製等に関して、次の三要素に分解した上で、複製の行為主体を実際に機器を操作した者以外であるとするような解釈論が現在の判例では支配的となっているのです。
普通の感覚では、一番目の「複製機器を操作した人」が複製の行為主体ということになりそうに思えるのですが、残りの二つ「複製が行われた場の管理・支配者」と「複製元となった情報を選択した人」が同一の事業者である場合、複製の行為主体はその事業者であるというのが、今年一月にあったロクラク裁判の最高裁判決でして、これが現在支配的な判例ということになっています。
何でもネット経由でロクラクに対して「録画しろ」と指令を出した個々のユーザは事業者の「手足」となって指令を出したに過ぎないのだそうです。この辺が今回の訴訟に対して法学クラスタの人がつぶやいている「手足論」の指しているところです。
今回の書籍電子化のケースは、「複製機器を操作した人」は事業者(の従業員)で「複製が行われた場の支配・管理者」も事業者で「複製元となった情報を選択した人」だけが利用者・依頼者という形です。この場合で複製の行為主体が個々の依頼者であると認められるとしたらかなり画期的な判例となるのですが……はい、画期的な判例というので予想できるように、この手の裁判で個々の利用者を複製の行為主体であると認めた裁判はこれまでのところ、ロクラク裁判の知財高裁判決ぐらいで、しかもこの判決は最高裁でひっくり返されてしまっていたりします。
最後に思いつくのは「破壊型の電子化で、原告に実質的な財産権的損害が無い状況で、複製権によって差し止めを求めるのは権利の乱用である」という主張ぐらいなのですが……著作権法に個々の条文として書いてある複製権を、著作権法に書いてないことを前提にして否定しようとするのですからかなり無理のある、勝ち目の薄い主張になります。
それでも、他の主張とあわせて裁判官の心証を構成する一要件として主張しとく意味は……あるんじゃないかなーぐらいに考えています。講談社サイトのプレスリリースにある「3.スキャン事業による権利侵害の重大性」の部分は権利の乱用を主張された場合に対しての予防線のようにも思えますので。
私は書籍電子化代行業に好意的と自認していますが、そういう私の立場から考えても、今回の訴訟は勝ち目が薄そうだなぁと思ってしまう訳です。……ですが、それでも、被告 2 事業者には全面降伏ではなく、著作権法に詳しい代理人弁護士に依頼した上で最高裁まで負け戦を続けてはもらえないかなと期待しています。
というのは文化庁の文化審議会・著作権分科会・法制問題小委員会において、委員の間では書籍電子化代行は「著作権制度と相容れない悪」という形では語られていないからです。現行著作権法では電子化代行業が適法と見なされる可能性は低そうですが、今回の訴訟を踏まえた議論の結果、書籍電子化代行を著作権法上適法とするような法改定が行われる可能性もゼロではないのです。
そういう意味で、最高裁まで戦いを続けることで、原告側プレスリリースにもあるように「あるべき電子書籍の流通とルールの姿について、議論と理解が進む」ことが期待できるのではないかと思っているのです。
昨日の記事のおまけのような内容です。著作権法 30 条では「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用することを目的とするときは、その使用する者が複製することができる」とありますが、他者に複製を依頼することが完全に不可能かというと決してそうではありません。
ロクラク裁判での最高裁判決は「複製が行われている場の支配・管理者」「複製元となった情報を選択・入力している人」が同一であれば、実際に複製機器を操作している人ではなく「場の支配・管理者」であり「情報を選択・入力」した者が複製の実現に枢要な行為をしており複製行為の主体であるという構成になっていました。
今回の思考実験のように自宅で家政婦にこの本を電子化しろと指示して実行させる場合、ロクラク裁判の最高裁判例を踏襲すると複製主体は「場の支配・管理者」であり「情報を選択・入力」した雇用主となるはずであり、実際に機器を操作しているのが家政婦であるにも関わらず「その使用する者が複製」していることとなります。
さて、著作権法 1 条には目的規定がおかれており「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」とされています。
著作権法で著作者に認められた各種の権利およびそれらの権利の制限規定は全て「文化の発展」に寄与するからこそ、それらの保護・制限が行われることが正当化されている訳で、著作権法によって可能な事業と不可能な事業が分かれるということは、著作権法の制定者とその解釈を行った裁判所はそのような峻別が行われる社会が「文化的に豊かな社会」であると考えていることになります。
今回の書籍電子化代行事業者に対する訴訟が私の想定通り代行事業者側の敗訴に終わったとすると、家政婦を雇える富裕層は他者に書籍電子化を依頼することが可能であるにも関わらず家政婦を雇えない貧困層は書籍電子化を自身で行うしかなく、そのような線引きが行われることこそが「文化的に豊かな社会」なのだとなります。
著作権法 1 条と、ロクラク裁判の最高裁判決をくっつけて考えるとこういう心温まる素晴らしい結論になるわけでして、ホントーに現行著作権法ってステキですね。